仏教は、紀元前5世紀頃のインドで、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が仏となるための教えを説いたことから始まった宗教です。時代とともに変化しながら広まり、大きく分けて上座部仏教、大乗仏教、密教の三つの流れが形成されました。特に日本では大乗仏教と密教の影響が強く、さまざまな宗派が発展しました。日本の仏教を中心に、仏教と男色の関係を詳しく紹介します。
性欲を悟りに至る手段とする密教
仏教の教義では、性欲は煩悩とされます。そのため、僧侶は性欲を断つ必要があり、妻帯も禁じられてきました。出家者は男女に分かれ、互いに接触しないようにする習慣もありました。しかし、女人禁制が徹底した男性の僧侶たちの間では、同性同士で親密になり、そこから肉体関係に発展することも少なくありませんでした。
また、仏教の中でも密教は、秘密に説かれた深遠な教えを信仰する仏教の一派です。儀式や呪術を通じて仏の智慧を体得することを目指し、その教義や修行法は師から弟子へと秘密裏に伝えられます。
密教では、性を単なる生殖の手段ではなく、霊的なエネルギーによって悟りに至る手段と考えます。たとえば、真言密教の重要な経典『理趣経』は、性欲や快楽を肯定的に捉え、これらを智慧に転換することで、より高次の悟りを目指すべきことを説きます。この中では、同性愛も否定されず、むしろ、精神的な結びつきとして重視されるという説もあります。
また、7世紀頃のインドでは、『タントラ』と呼ばれる聖典に基づくタントラ仏教が栄えました。タントラ仏教において、性エネルギーは悟りに至るための重要な要素とされ、男女のセックスが曼荼羅が描かれました。経典の『秘密集会タントラ』では、悟りへの手段に性的行為を位置づける思想が説かれて、男女の天が抱き合う「双身仏(ヤブユム)」によって性エネルギーの統合を象徴します。この思想は、性別を超越した霊的な結合であるため、男色も含まれると解釈されることもあります。
山岳信仰と密教が結びついた修験道
日本の密教は、平安時代に最澄や空海によって輸入された後、山岳信仰と結びついて「修験道(しゅげんどう)」という日本独自の宗教を生み出しました。
修験道の修行者である山伏(修験者)たとは、厳しい山岳修行を共にする中で、精神的な結びつきが深まって男色に発展することもありました。
また、修験道と縁の深い密教の信仰対象、愛染明王(あいぜんみょうおう)は、恋愛や性に関わる仏尊として知られています。欲望を浄化し智慧へと昇華する力を持つとされ、性的なエネルギーを精神的な力に変えるための修行で重視されました。また、恋愛の形として男色も排除していませんでした。現代でも、愛染明王を祀る寺院の中には、「すべての愛を尊重する」というメッセージを発信し、同性カップル向けに、特別な祈祷を行ったり、お守りを授与したりしている寺院もあります。
女人禁制の寺院で流行した「稚児愛」
日本に輸入された仏教は、男色文化である「衆道(しゅどう)」と結びつきました。仏教寺院では、年長の僧が稚児(ちご)を庇護して教育する中で、同性愛的な関係を築いてきました。稚児は10歳前後で寺院に入り、仏教の教えを学ぶとともに、行儀見習いとして雑務を担いました。美しい衣装をまとい、時に女装した稚児は少女と見分けがつかないほどで、女人禁制の寺院では男色の相手とされることもありました。もっとも、当時の価値観・倫理観では、年長の僧と稚児の関係は、性的な肉体関係というよりも、教育的・精神的な結びつきと捉えられていたようです。
中世日本の寺院、特に密教寺院では、「稚児灌頂(ちごかんじょう)」と呼ばれる儀式が行われていました。灌頂はもともと、菩薩が仏になることを証明する儀式を表します。密教の灌頂は、弟子に戒律や資格を授けて正統な継承者とする儀式です。
稚児灌頂では、稚児となるべき少年が華やかな稚児装束を身にまと、頭髪の一部を剃り落とされます。その後、高僧である阿闍梨から秘密の真言や仏の名号が授けられ、それを受け取ります。こうして、仏の教えを守ることを誓った少年は、寺院に仕える存在である稚児としての地位を正式に得ます。
平安~鎌倉時代には、比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺などの寺院で、貴族や武士の子息が稚児として入門し、稚児灌頂を受けたといわれます。南北朝~室町時代には、稚児の役割は宗教的なものから芸能や文化的なものへと広がり、稚児舞や能楽、田楽などの芸能が発展しました。僧と稚児の男色関係である「稚児愛」は、文学や日記にも描かれました。しかし、江戸時代には、寺院における稚児制度は形骸化や幕府の宗教統制政策などから、稚児灌頂は次第に廃れていきました。
稚児愛を描いた文学作品には、説話集の『今昔物語』『宇治拾遺物語』などの他、江戸時代には井原西鶴が『男色大鑑(なんしょくおおかがみ)』が有名です。また、中世から近世初期にかけて「稚児物語」と呼ばれるジャンルも確立し、稚児愛が恋愛小説として受け入れられていたことがわかります。
寺院において、保護者的な僧とそのもとに仕える稚児の間に性的な関係が成立していたことは、現代の価値観に照らし合わせれば非常に悪質であるように思われます。しかし、当時の社会や文化では許容されていただけでなく、文学などにも昇華される一つの愛の形でした。

昔の坊さんたちは、自分の性欲のはけ口を求めて少年愛に走った挙句、「稚児灌頂」なんて儀式まで作ったんだから、とんでもねえ変態どもだな。そもそも密教は、仏教で禁じられてるはずの性欲を肯定しちゃうんだから、何でもかんでも自分たちに都合のいいように解釈を捻じ曲げるのは、ある意味「人類の知恵」なのかもしれない。

「保護者的な役割を担う者と、その保護を受ける者は、一線を超えてはいけない」って価値観や倫理観が最近のものなんだろうね。精神的な結びつきの結果として肉体関係に至ることは、男同士や主従関係で美徳とされていたみたいだ。何でもかんでも現代のルールに当てはめるんじゃなくて……。といっても、歴史ある文化の一部は、現代では立派な犯罪だから注意しよう。





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